社交ダンス物語 163 油断大敵

コラム

 かつてお坊さん(弟)に勧められて夏山登山をしましたが(第159話)、そこでの教訓は、ちょっとした油断や隙が取り返しのつかぬ一大事につながるということ。右手側のトレッキングポールを、ポロリと岩肌に落としてしまい、何気なく拾い上げた時のことです。お坊さんから戒めの言葉を受けました。夏山だから拾えたものの、雪山だったら落としたトレッキングポールが流れてしまい、命取りにつながりますと。その時私の脳裏に浮かんだものは、自分が執刀する手術の光景だったのでした。

 「手術」と「登山」、どう関連あるの? そう思われるかもしれませんね。執刀医にとって、それは深く関連いたします。手術では、メスやハサミなど医療器具の出し入れをします。当然のことですが、その際は清潔域を保ち、確実に器具を操作しなければなりません。筆者の場合、患者さまの目にメスを入れている時や、目の中で器具を操作している時は、「寸分の狂いも許されない、失敗は死刑」と自分に命じております。張りつめた手術室の中で、ひとつの操作を為し終えて器具を戻す時、集中力が持続しないのかポロリと床に落としてしまうことがあるのです。
「ハサミ落としました。新しいのを出して下さい。」
そう言えば(こちらがそう言わずとも)、すぐに新しいハサミが出てまいります。しかし、これが雪山登山だったらどうでしょう。
「トレッキングポールを落としました。新しいのを出して下さい。」
出るわけありません。悔やんでも、時間は後戻りいたしません。

 さてここで、うちの大学のH教授は凄いですよ。何が凄いかというと、手術の腕が凄いのは申し上げるまでもありません。器具の受け渡しが凄いのです。ハサミひとつにしても、器械出しの看護師に返すとき、手術用ワゴンの上にポイとなど置かれません。指先にまで神経を張り巡らせ、出番の終わった医療器具をも見事な手さばきで(目を見張る速さ、しかも静かに)、ワゴンの上に着実に戻されるのです。まるで安土桃山時代の茶器を扱うかのように。
『人間だもの、どこかに隙があるはず…』
隙を探せども、H教授には寸分の隙も見つかりません。よって手術中は筆者のように、「あ、ハサミ落とした。」は、ありえないこと。お医者さんの世界では、自分は「プロ」と思っていましたが、「トップ・プロ」は違うんですね。全ての動作がパーフェクトで美しい。

 そこでアマチュア競技選手の筆者、おこがましくも、これを自分達のボールルームダンスに置き換えてみました。技量はさておき、試合では曲が鳴り始めてから終わるまで、ホールドが崩れそうになったら立て直し、踊りに寸分の隙がないと言えるかどうか?「隙はないよ」と言える方は、本当に素晴らしい。チビ・ハゲの自分達、競技会でスローアウェイ・オーバースウェイやレフトホイスクに入る直前、苦手意識で構えてしまい、腕に力が入ります。決まった瞬間は、ほっ。富山弁で言うと『あっかり』。でも、このあっかりが、致命的? うちのコーチャーに言わせると、ジャッジは自分達が『カッコイイ!』と思っているピクチャーポーズなど見ていないそうです。ジャッジが見たいのは、その次の動作。つまり、シャッセフロムPPから出る瞬間なのだとか…。

 ああ、油断大敵。アマチュア競技選手の皆さまへ、試合ではワンチェック足りなくて命取りにならぬよう、日頃から心がけましょう。

著者名 眼科 池田成子