社交ダンス物語 26 「ダンスホールの光景」

コラム

 『20歳未満は入場お断り』 古ぼけたステッカーが貼られた入り口をくぐると、その先は大人の社交場だ。そう、ダンスホールである。60歳前後と思われる小柄のマスターが笑顔で迎えてくれる。彼はかつて競技選手だったそうだが、引退後はパートナーであった奥さんとこの店を営んでいる。マスターの現役時代は、どんな踊りをしていたのか私は知らない。知る人ぞいわく、クイックステップを踊らせたら、『褐色の弾丸』のように凄まじかったという。
 日曜の午後、煙草の煙で霞みがかった薄暗いダンスホールは、大勢の常連客で賑わう。オレンジ色のニットをお洒落に着こなし、カウンターの特等席でグラス片手に『ダンス』を語っているのは、現役時代A級選手だったというご主人だ。一方すらりとした奥さんは、木の葉を返すように一人シャドーで踊っている。カウンターの向こうのテーブル席には、赤いジャケットを着た長身の髭を生やした粋な男性が、ぷかぷか煙草をふかしている。この髭のマスターは、プロのダンス教師の資格を持っているらしい。時折スマートに、女性客のお相手をしている。
 ホールはエレクトーンの生演奏とCDが交互に流れている。生演奏をしてくれるのは、色白の綺麗なお姉さん。今日は水色のスカートが良くお似合いだ。英国紳士を思わせる男性が、彼女の方を意識している。彼女のリーダーだ。エレクトーンの演奏をしていない時は一緒に踊っている。二人はワルツを踊り始めた。リーダーの表情は、至福の喜びのよう。
 午後2時半から4時半過ぎまでは、ホールはお客さんの数がピークとなり、エネルギッシュな熱気で沸き上がる。お客さん達の齢は60代だろうか。ミドルエイジである自分達が、子供にさえ思えてしまう。ダンスを愛する人は実年齢よりも若くみられる傾向にあるから、実際は自分の親より年上なのかもしれない。常連のお客さんの中で、父の同級生だったという方が踊っている。皆さん若い頃から、ダンスを嗜んできたのだろう。
 夕刻になると、光り物が付いたドレスやミニスカートで踊っていたご婦人達はいそいそ着替え始め、家路へと向かう。そして午後6時を過ぎるとダンス愛好家のお客さんの姿はぐっと減り、華やかなホールはひっそりと静まる。
 外がうす暗くなると、マスターはホールの窓のカーテンを開きはじめた。晩秋の弱く長い光が差し込み、ホールは競技選手達の練習の場へと表情を変える。 
 深々と帽子をかぶったエキゾチックな顔をした浅黒の男性が、ホールに現れた。彼は練習着に着替えると、白いタオルで頭をすっぽり包んで更衣室から出て来た。彼と眼の美しい彼のパートナーは、敬愛する先輩の一組だ。一体感から来る素晴らしい踊りを練習の場で見せてくれる。リーダーの頭はずっとタオルで包まれたままだ。『ターバン先輩』というニックネームを我々は密かにつけているが、ターバンの下は一体どうなっているのだろうか。謎である。
 オレンジのニットのご夫婦も組んで踊りはじめた。我々の場合、僅かでもアルコールが入るとバランスを崩してしまうのだが、ご主人はほろ酔い状態でも、正確かつ波のうねりのようにダイナミックに奥さんをリードして踊っている。我々も先輩達に負けまいと踊る。意気込みは別として、踊りの質は大人と子供の差ほど、歴然としていることだろう。
 1時間ほど踊り続けただろうか。喉がかわいた私とリーダーは、先程まで先輩達が座っていたカウンターへと向かった。
「マスター、アイスコーヒー下さい。」
「コーヒーなら、自動販売機で売っているよ。」
入り口を指差して、マスターが微笑む。
 この愛するダンスホールのカウンターに座り、我々が大人の仲間入りする日は、いつのことであろう…。

著者名 眼科 池田成子