社交ダンス物語 305 嫁は語る

コラム

 皆さま、こんにちは。お嫁さんこと、糸病眼科の池田です。嫁として年季が入っております。知力のない分は、体力で勝負。働き者の良き嫁を目指して、今日まで頑張ってまいりました。
「え”? 結婚していたの?!」
読者の皆さまには、驚かれるかもしれませんね。はい、自分は病院と結婚しております。糸魚川総合病院の『嫁』と思っていますので。えっ? 女に古いと書いて、『姑』(しゅうとめ)ですって?!(笑)ちなみに、研修医だった頃は、自分は『病院の子』と思っていました。ご縁があって、平成10年7月に富山医科薬科大学(現在の富山大学)から糸病へ嫁いで、はや23年が過ぎました。今の研修医の先生は、ご自分が研修したい施設を自由に選択できるそうですね。素晴らしい。私が研修医だった平成の初期は、研修医には選択の余地なし。上からの指示に従うまま。当時の教授から、「○○君、君は××病院へ行って下さい。」そう言われたら、お返事は「はい」でした。令和時代の若い先生に同じく「○○先生、××病院へ行ってもらえませんか?」と頼もうものなら「アカハラですか?」と問い返されそうで、教授先生達はビクビクしているそうですよ。時代は変わりました。

 今では結婚は自由、双方の合意のもとです。でも、昔は親が決めた人と結婚していました。大正生まれの祖母は、結婚式の当日にお相手と初対面したそうです。これは祖母から聞いたお話です。当時は17歳、文金高島田にべっ甲のかんざし、黒地に金糸の花嫁衣装を着せられた祖母は、9歳年上の花婿を見て、仰天したそうですよ。なぜって、花婿の頭には毛がないのです。前頭部から頭頂部にかけてスカスカ!17歳の乙女、あまりものオソロシさに無我夢中でその場から逃げ出し、トイレに駆け込み、鍵をかけて立てこもったそうです。
「嫌なら、結婚をやめて良いのよ。」
長時間トイレに立てこもっている娘に、母親が静かに話しかけてきたそうです。昔の時代では、結婚式当日のドタキャンは御法度。ましてや新婦側なら許されまじきこと。祖母のお母樣は、決死の覚悟をなさったのでしょう。自分のダンナよりも、花婿には毛がないのですから。その時です。花嫁は、ひたすら自分を待っているチビで毛のない花婿が、哀れで可哀想に思えてきたのです。そして花嫁は、そっと鍵に手をかけたのでした。
「なんて美しい話なのだろう…。」
チビで毛のないうちのリーダーは、この実話に胸ジーンだそうですよ。(笑)

 毛のない祖父と祖母はご縁があり、実にありがたいこと。そうでなければ、自分は存在しませんので。さて、昭和15年生まれの母の時代は、お見合いはあったそうです。とはいえ、形式上。母の話によると、見合いの席で父はじっと下を見たまま。一度も母の顔を見なかったそうです。二人が会話を交わすこともなし。親同士の挨拶の後に「協議してまいります」と祖父が言い、父側の一同は席をはずしたそうです。その後に、祖父ひとりが現れて、
「○○さんをもらうことが、決定しました。」
そう告げられたそうです。実は父と母がお見合いをする前に、こんな結婚調査のエピソードがあります。
「頭の悪い嫁をもらってはいかん…」
そう思った祖父は、息子の縁談があった時に、母の学生時代の成績を調査したそうです。母は富山県出身ですが、京都の大学を卒業しています。祖父は母の成績を聞き出すために、富山から京都へ自ら足を運びました。大学側は祖父の要望に応じてくれたそうです。実は祖父も父も、母と同じ大学出身。しかも、同じ学部の卒業生です。
「首席で卒業されました。」
母校の大学教員から、そう通知されたそうです。『でかした!』と、喜びもつかの間…
「あなた様のご子息の成績も、お調べいたしましょうか?」
そう言われて、祖父はシッポを巻いて逃げることに…。(笑)

 いかがでしたか? いにしえのお嫁さんにまつわる、ちょっと笑えるエピソードでした。最後に自称、糸病の嫁こと眼科の池田からのメッセージです。令和の時代、うちの病院にも新しいお婿さん(男性職員)やお嫁さん(女性職員)が来てくださることを願っております。うちの病院はアットホーム、お舅さんもお姑さんも温厚で、みんないい人ばかりですよ。次世代を育てることにも熱心です。ここでは自分のような出来の悪い嫁でも、皆さんから助けてもらい、のびのびと安心して働くことができました。糸病の嫁としてここに居させていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。この糸病エッセイ『社交ダンス物語』を読んで下さったお若い方へ。これもご縁でしょう。どうか、ご縁を大切に。糸病の嫁、もとい姑は、若いあなたをお待ちしております!(スマイルマーク)

著者名 眼科 池田成子